この人この時代

第1話 1万メートルの小柳早見さん

「小柳賞」と銘打ったロードレース大会は、佐世保冬期スポーツのビッグイベントです。健脚自慢が各地から訪れて1万メートル(10キロ)に覇を競います。その名称のもとになったのが小柳早見さんです。


 明治36年(1903)2月2日に佐賀県神埼郡池町西名で生まれた小柳さんは、旧制佐賀中学校を卒業した17歳の時に佐世保にやってきました。大正8年(1919)のことで、当時の日本は第一世界大戦の不況下です。政府はインフレ政策で乗り切ろうとしましたが、勤労者の賃金が目減りし、米の買い占めがあって暴動が起こるなど、物情騒然とした世相でした。
 佐賀は九州有数の米どころでしたが、他の農村地帯同様に不況が深刻でした。ところが、すぐ近くの佐世保だけは、不況知らずの活気を見せていたのです。これは、海軍が世界の強国に肩を並べようと「88艦隊」といわれた大型軍艦の建造を急いでいたためです。
 もともと佐世保は、明治19年(1886)に海軍軍港に決定して以来、お隣の佐賀県からたくさん人がやってきていました。これが第1次の佐世保移住ブームとすれば、大正不況時は第2次の移住ブームとなったのです。青年・小柳早見さんも、西九州で唯一活況にわきたっていた佐世保を目指したのでしょう。


 小柳さんのスポーツ開眼は、中学校時代に当時陸上界の第一人者といわれた野口源三郎氏と出会い、その教えを受けたことです。佐世保に出てきてからは佐野病院、田崎病院に勤め、今でいえば自家用車の運転手にあたる人力車の車夫として働きました。
 それは、日常も陸上長距離ランナーとしてのトレーニングを兼ねてのことでした。人力車は直径1メートルもある車輪をふたつ備えた乗り物で、座席の前にかじ棒が付き、車夫がそれを引っ張って走ります。
車輪が付いているとはいえ、人間ひとりを乗せて走るのですから、足腰をはじめ全身の筋力アップにはもってこいの仕事です。

 こうして、佐世保の町を走る小柳さんは名物男として名を知られたということです。特に、本島町の田崎病院は、小児科の名医として知られた人だったので、子どもたちにも名を知られていったということです。

 小柳さんの戦歴は明治神宮大会の1万メートルに出場6回。大正14年の第2回大会で33分45秒の新記録で優勝。30歳になった昭和八年の第七回大会でも三十二分○六秒の新記録で優勝しました。
 昭和11年のベルリン・オリンピック1万メートル4位入賞の村社講平選手も「小柳選手を破るのが自分の目標だ」といいました。


 この小柳選手の名を付けた大会は、小柳さんが亡くなった5年前の昭和26年、小柳賞短縮マラソンとして始まりました。



小柳賞マラソン
小柳賞マラソン


posted at 15:20:00 on 2005-01-31 by SSF - Category: この人この時代
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