この人この時代

第5話 バレーボールの東正行さん

東正行さん

この道一筋のリーダー

 平成9年4月9日、享年82歳で没した東正行さんは、まさにバレーボール一筋に貫いた人生でした。自分の信念を実践する熱い熱血漢で、人一倍厳しい指導者。と同時に明晰な頭脳と緻密な計算力、加えてとても面倒見の良い親分肌の人でした。
 東さんの指導を仰ぎ、また仲間として共に競技に励んできた人たちは、異口同音に東さんの人物像を心をこめて語りました。大衆スポーツとして、老若男女を問わず競技人口が多いバレーボールの、佐世保市での発展を語る上で、まさに第一人者だった東正行さんのヒーロー像を描いてみました。


佐世保海兵団で活躍

 2メートル近い巨漢が華麗にネットぎわに舞い、鋭い打球がコートに突き刺さる、今日のバレーボール競技は、まばゆいライトのもとで行われる室内競技として定着していますが、佐世保でプレーが始まった大正末年から昭和初年ごろは、屋外のグラウンドにネットを張っての試合でした。
 大正年9月15日、宮崎県都城で生まれた東正行さんは、少年時代から陸上の長距離得意で、しかも相撲も強いというスポーツ万能選手でした。
 といっても、今日では普通に見られるようになった慎重180センチといった優れた体格ではなく、当時では普通の身長であった5尺3寸、つまり160センチほどでした。

 佐世保のスポーツ全てを語る上で、海軍と海軍工廠を抜きにしては語れませんが、バレーボールもまさにそのとおりです。東さんも、現在のニミッツパークにあった佐世保海兵団に入団、さっそくバレーボールを始めました。今から六十七年ほど前の昭和八年のことでした。
 平成5年に発刊された「佐世保市バレーボール協会史」によると、市内で最初にバレーボールが行われたのは、県立佐世保高等女学校(白南風町の現スポーツランド)です。大正12年(1923)のことで、日本体育学校出身の小森先生から指導を受けたのが始まりです。

 当時「排球」と呼ばれていたバレーボールは、翌大正13年には極東選手権で全日本男子チーム監督をつとめた多田徳●氏をコーチに招いて、県女の女生徒たちが、本格的に始めました。
 毎日授業が終わった放課後が練習時間で、時折は学校から3キロも離れた大久保小学校に出かけ、同校の先生チームとの練習試合にのぞんでいたというところです。

 こうして、女生徒たちの手で始まったバレーボールは、佐世保市立成徳高等女学校などへと普及し、男子も佐世保商業学校、そして昭和の時代に移り、海軍工廠などへと少しづつ広まっていきました。
 東正行さんが始めた昭和10年代は、海軍工廠の軍帝部、経理部、施設部にチームができ、海兵団もチームを結成して練習に励むようになりました。

 長崎県での初の公式戦は、大正13年の第1回中等学校選手権で、佐世保からは佐世保高女と成徳の両チームが参加しています。佐世保高女は、大正14年の第2回明治神宮大会に、九州代表として出場、3位入賞を果たしてました。
 この時代が日本における大衆スポーツの興隆期で、今日の国民体育大会に相当する明治神宮大会、その予選となる県大会や九州大会、さらには競技人口の飛躍的な増大のきっかけとなる小学校での大会開催など「国民すべての スポーツ」が定着していきます。
 国際的にみても、昭和3年(1928)のアムステルダムオリンピックで三段跳びの織田幹雄、水泳200メートル平泳ぎの鶴田義行の両選手が、日本人初の金メダルに輝く快挙を成し遂げ、日本人全体の近代スポーツに対する認識が高揚しました。(鶴田選手も佐世保海兵団所属でした)

当時の東さんを回想する矢ヶ部さん、田中さん、中村さん
当時の東さんを回想する矢ヶ部さん(左)田中さん(右)中村さん(中央)


海軍―SSK、同時代を歩いた矢ヶ部常夫さん(77)=現佐世保市バレーボール協会顧問の話

 東正行さんと八つ違いで、戦前海軍工廠航空機部(のちの第21航空廠)でバレーボールに熱中していた矢ヶ部常夫さんは、まさにバレーボール興隆期から戦後の全盛期へと共に手を取り合ってやってきた人です。
 「東さんは、何かあると“わが帝国海軍は”が口ぐせで、海兵団時代から職務に強い誇りを持っていました。戦前の日本男子を代表するようなやかましやで、私たちも事あるごとに怒鳴られながら指導を受けたものです。特に“この男はモノになる”と見込んだ選手の指導ぶりは、それは厳しいものでしたね」と矢ヶ部さんは語ります。

 「戦後、海軍が解体してSSK佐世保重工業が設立されました。東さんは総務課に勤めるようになり、会社での儀式・式典一切をテキパキと切り盛りされていましたが、その一方ではSSKバレーボール部部長として、まさに負け知らずの黄金時代を築き上げられました」と矢ヶ部さん。
 その言葉どおり、昭和30年代のSSKバレーボールチームは、九州から一チーム参加という国体に、毎年代表となっていました。また、実業団チームとしても“佐世保にSSKあり”として名声を馳せていました。
 
 昭和17年、東京・代々木練兵場で開催された最後の明治神宮大会に海軍工廠チームの一員として参加した矢ヶ部さんは「早朝5時に玉砂利を踏んで明治神宮に参拝、10月31日に開会して11月3日の明治節に終わる大会は印象深いものでした。太平洋戦争下の大会とあって、参加記念メダルも銅ではなく、焼き物の陶製でした」と回想されていました。

SSKバレー部で指導を受けた中村充利さん=現佐世保市バレーボール協会副会長・理事長の話

 昭和31年SSKに入社しました。当時はナベ底不況からどうやら立ち直りかけてきた……という時代でした。出身が佐世保工業で、高校時代からバレーボールをやっていましたので、東正行部長によろしくと入部させてもらいました。
 とても面倒見のよい人で、こわい人ながら私はよく可愛がってもらいました。部の存続や成績の向上にも熱心で、良い選手の獲得にも率先して奔走され、日鉄伊王島炭坑や大村などに出かけて中堅選手を入社させていました。
 そうしたスポーツ全盛期、どうしても体育館が足りないのでSSKで作るという話がまとまり、市に土地のあっせんを依頼しました。市には、干尽町の競輪場に隣接して、沖新町の水上機格納庫を転用した体育館があったのですが、適当な用地が確保できず、この話はお流れになったのです。
 ともかくも東会長は面倒見がよく、仲人をつとめたのも20組は下らないでしょう、あいさつの上手さも抜群なら数学にも強く、大きな大会の準備も一人で走り回って完璧に仕上げていました。
 面白いのは、人を表彰しても自分が表彰されたりお祝いされたりするのは大の苦手。還暦のお祝いにこっそりと企画したときも“記念品なんかいらんから返せ、会には出らん”と大変なもの。やっと式場の幕をはずして何とか会を催したものでした。県民代表のときも欠席でしたよ。

戦後の指導者としての歩み

 昭和20年8月15日の太平洋戦争の敗戦は、海軍の街として発展してきた佐世保市にとって、立市の基幹を失う大ショックでした。敗戦前の6月29日の米軍空襲で、市街地の大半は焼失し、人口も昭和19年の40万人近い数から14万人に激減してしまいました。
 しかし、海軍工廠も従業員の組織だった労愛会がいち早く再建に立ち上がり、やがて佐世保船舶工業株式会社(略称SSK)となって再起し、新たな平和産業都市づくりの中心となって稼働を始めました。
 昭和21年11月17日、長崎県バレーボール協会発足に歩調を合わせて佐世保支部がスタート、東さんが晴れて部長に就任しました。この年のバレーボールチームは、旧制佐世保中学校OB。工業OB、佐世保教員、それに男女SSKの5チームでした。

 翌22年に西日本実業団県予選大会が開催され、SSKチームは見事参加13チームの頂点に立ち、戦後の初制覇を果たしました。
 昭和30年代に入ると、小学校の講堂、中学校体育館が次々と建設され、バレーボールは屋内競技へと転換されます。昭和33年に干尽町市営体育館が竣工、記念に国体2年連続日本一の住友金属チームとの対戦が、4千人の大観衆の前で行われ、バレーボールへの認識が大いに深まりました。
 この間、9人制から6人制にと移行し、主婦のママさんバレーの盛行、昭和44年の第24回長崎国体では佐世保市がバレーボール会場となりました。

 佐世保西高の会場には昭和天皇皇后両陛下がご臨席になって観戦され、会場への御先導を東会長がつとめました。昭和53年、SSKは石田文雄監督のもと、悲願の全国大会初優勝を達成しました。
 東正行さんは平成6年3月、80歳の傘寿(さんじゅ)を迎えられたのを機に、会長職を田中光顕さんに譲り、事実上第一線を退かれました。


昭和天皇皇后両陛下の御先導をつとめる東会長


posted at 15:24:00 on 2005-01-31 by SSF - Category: この人この時代
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