「もし、西典子選手がいきていたら・・・・」今でもハンドボールを愛する人たちの間で語り草になっている西典子さん。昭和61年3月11日、敗血症から肺梗塞を起こし、28歳で急逝した不世出の名選手。今は「西典子杯ハンドボール大会」に名を残す佐世保出身・元全日本チームのエースです。
この西選手を世に出した人が、県ハンドボール協会参与の寺崎嘉高先生。また、北高監督時代の昭和46年、チームをインターハイ準優勝に導いた藤井 寛先生。全国クラブ対抗で2度の優勝を成し遂げた青井正弘先生。こうした人たちの手で、佐世保のハンドボールが育ってきました。
「ちょっとハンドボールもやってみないか」
大野中学校1年生のときに、ソフトボール部だった西さんに、そう声をかけたのが寺崎嘉高先生でした。この一言が運命となって、パワフルな全日本ハンドボールのエースが生まれたのです。
ヒーロー、ヒロインは、ずば抜けた実力をもって、その時代を象徴する活躍をした人に捧げられる賞賛の言葉です。でも、そんな名選手の生みの親、育ての親、そして競技自体の普及と発展に大きく貢献した寺崎さんもまた「ヒーロー」の名に値するでしょう。
華麗な技でファンを惹き付けるプレイヤー、その選手の素質を見抜き、磨きをかけ、世に送り出す監督やコーチ。この陽と陰との見事なコンビネーションこそは、すべてのスポーツに共通する重要な条件なのです。
佐世保市楠木町で昭和32年11月10日に生まれた西典子さんは兄と弟をもつ三人兄妹の真ん中として、男の子と同じ遊びをして成長しました。
ただ一人、女の子で出場した柔道大会で、並みいる男子選手を投げ飛ばしたエピソードなど、はつらつと身体を動かすことが大好きな、明るいスポーツ少女でした。
昭和44年春。大野中学校に進学した典子さんは、部活の中でもハードなソフトボールイブに入りました。1年生の3学期、早く練習が終わった典子さんは、ハンドボール部の友達を迎えに練習コートにやってきて、見学しながら終わるのを待っていました。
「君もちょっとやってみないか」
ハンドボール部監督をつとめていた寺崎先生は、部員たちの動きと練習ぶりを見つめる目の輝きを見逃さず、さりげなく声をかけたのです。以後、典子さんは1時間早く終わるソフトボールの練習のあと、友達がいるハンドボールのコートに立ちました。
すばらしいセンスに恵まれていた典子さんは、すぐハンドボールのコツを掴み、レギュラーをたちまち追い越す上達ぶり。加えて、典子さんの素質を見抜いていた寺崎監督は、巧みに典子さんの長所を育てる指導に情熱を注ぎました。
2年生から3年生にかけて小柄な身体も大きくk成長し、身長は165センチを越えて、技巧に加えてパワフルな迫力も加わりました。
花開いた佐世保商時代
ソフトボールとのかけ持ちながら、ゴールキーパーとしてアタックの前に立ちはだかる西典子さん。大野中チームはもう県内に敵なしとなりました。九州大会でも2位という抜群の成績に寺崎監督も、「自分の目に狂いはなかった」と心から喜びました。
「将来は体育の先生に」と希望していた典子さんは、スポーツに専念できる県立佐世保商業高校に進学、クラブはソフトボールでと考えていました。ところが、中学時代ハンドボール部の先輩だった人が、典子さんに無断でハンド部に入部届けを出していたのです。
そこで、すぐにハンド部監督の浦力(ちから)先生に入部を断るために会いに行きました。ところが、浦監督は「君は将来体育教師を希望しているそうだが、ハンドボールをやれば私が必ず大学へ行かしてやる」と説得。典子さんもこのひとことに心が動き、ハンド部に入部しました。
中学でゴールキーパーしか経験していない典子さんを、浦監督はアタッカーに起用しました。当時、社会人でも168センチ、64.5キロという身体に恵まれた選手は少なく、すぐに右45度というエースポジションを典子さんに与えたのです。しかし、インターハイを目指した県大会では、ハンドの実力高島原農に決勝戦で敗退。ここでふつうの選手なら落ち込むところを、西典子さんはむしろ、本気で、ハンドに打ち込む契機にしました。
けがに泣き、部員は補欠もいない5人ギリギリのチームというハンディもはね返し、2年生の秋、九州大会出場権を勝ち取りました。
「逆境にあっても闘志を忘れない」というガッツで、まさに「ハンドの西典子」の才能が花開いたのです。
ハンドの名門・大崎電気へ
高校を卒業するとき、体育教師の夢を捨てきれない典子さんに、浦監督は社会人チームでの活躍をと勧めました。左ひざ・靱帯の故障を抱えて悩んでいた西さんに、下降線をたどる名門、大崎電気チームの谷口俊郎監督は「チーム再建の柱になって」と説得しました。
この監督の言葉で進路を決し、大崎電気入りした典子さんでしたが、病院のベッドで筋力トレーニングに励むという痛々しい状況にも屈せず努力を続けました。昭和54年に全日本チーム入り。57年には得点の国際ランキング5位と、国際舞台でも華々しい活躍をしました。
しかし、58年のロス・オリンピック予選前、ヨーロッパ遠征の時、傷口から感染して敗血症と診断されました。華麗でダイナミックな典子さんのユニフォーム姿は、北海道函館で開かれたロス・オリンピック予選大会が最後になりました。
7ヶ月の療養を終えて退院したのが59年6月。負けん気ですぐ練習を再開したものの2ヶ月後に再発、入院。軽快退院後また再々発。それでも最後まで仲間に「体調がよくなればそちらに行きます」と手紙に綴っていた典子さんも、身体の深部に潜んでいた病魔にはついに勝てませんでした。
「典子さんの悲報を聞いたとき、我が子を失った!と強烈なショックを受けました。葬儀の間中”ハンドの道に進ませたのは私だ”と悔悟の念にさいなまれ、涙が止まりませんでした」と語る大野中時代の監督・寺崎嘉高さん。
「世界の舞台で活躍し、数々の記録を残した西選手の名は、永遠に人々の胸に刻まれますよ」と、人々は慰める言葉を寺崎先生にかけますが、「ご両親にはお詫びの言葉もない」と語る寺崎さんです。
しかし、毎年末に開催される、西典子杯ハンドボール大会も、今年で7回を数えます。例年、会場には典子さんの遺影が飾られ、宝塚の花形男役スターを思わせる、明るく美しい西典子さんの笑顔が見られます。
佐世保市ハンドボール協会参与、同じく県協会参与も務める寺崎さんは、昭和40年福石中学校に在職中、同僚の青井正弘先生から手ほどきを受け、ハンドボールと出逢いました。
以後、西典子選手がいた大野中で11年間男女ハンド部を指導、さらに清水、柚木、相浦と、中学校で30年間ハンドボール一筋に指導を続けてきました。
この間、大野中女子が九州大会優勝、準優勝が大野中男子1回、女子2回経験のほか、数々の好成績をあげました。野球、サッカー、バレーボールなど、ポピュラーな種目の影になりがちなハンドボールを多くの人々に認知させ続けてきた寺崎先生もまた、堂々たる「スポーツ草創期のヒーロー」でしょう。
寺崎嘉隆先生