この人この時代

第15話 体育指導委員制度発展の功労者 東光雄さん

 佐世保工業高校野球部の初代OB会長だった矢野忠明さん(70)は、東光雄さん(83)との初対面が今でも忘れられません。工業高野球部が“甲子園の夢を果たそう”と、市民あげての期待が大きくふくらみ続けていた昭和46年のこと。場所は工高グラウンド。 
 「野球帽を斜めにかぶり、人一倍の大声で気合いをかけ、かと思えば先に立ってトンボ(地ならしの道具)を使うなど、世話役顔負けの大車輪で動き回る大柄な人」。それが東さんでした。

180cmの背筋がのびた姿勢がトレードマークの東さん
180cmの背筋がのびた姿勢がトレードマークの東さん(交通安全ゲートボール大会で)


「私は二十世紀の男」と勇退
 東光雄さんは、昭和46年いらい32年間つとめていた体育指導委員を今年勇退されました。「私は二十世紀の男。二十世紀が終わる年には勇退する」と言明していた東さん。関係者挙げて「せめて市制施行百周年が終わるまで留任を」との懇請に負け、1期2年間の“延長戦を投げ抜いて”3月退任されたのです。
 体育指導委員の制度は、太平洋戦争に敗れた日本がようやく戦後復興を果たし、世界の先進国を目指して高度成長にひた走り始めた昭和36年に発足しました。スポーツ振興法制定に伴う新しい制度で、地域スポーツ振興、大衆スポーツ普及が目的でした。
 小、中学校区や体育団体の推薦で任命される体育指導委員でしたが、当初はほとんどが教職員の兼務という”官主導“でした。
 戦前から野球大好き少年だった東さんは、戦後3人の男の子に恵まれ、三人とも潮見小学校で少年ソフトボールに励みました。佐世保の少年ソフトボールの発足は昭和32年で、全国に先がけてのもの。東さんは三台の車でスタートした天満タクシー開業10年目の昭和38年、大事な仕事そっちのけで潮見少年ソフトボールチームの指導に打ち込みました。

スタート地点の小佐世保小
スタート地点の小佐世保小(左が和田さん、右が山崎さん)


 スポーツ表彰式でのひとコマ
スポーツ表彰式でのひとコマ


故・得永監督のもと工高の夢
  敗戦後間もない混乱期、グラブもバットやボールも貴重品だった佐世保工業高校野球部で活躍した矢野さんは、市役所に入って昭和46年、青年教育センター係長をつとめていました。
 今年2月1日、胃がんのため60歳で亡くなった得永祥男・波佐見高校野球部総監督。この得永さんが佐世保工業に赴任し、工業高校野球部は”夢の甲子園 “を現実のものにしようと盛り上がったのが昭和46年だったのです。人一倍熱血漢で、言わば野球狂の一人だった矢野さんは、さっそく工高野球部OB会をつくって応援しました。

 市民体育祭で先導する東光雄さん
市民体育祭で先導する東光雄さん


 東さんの三男良一さんが工業高校に進み、野球部に籍を置いたことで、冒頭に紹介した矢野さんと東さんの出逢いが生まれたのです。東さんの熱意はたちまち人々の知るところとなり、官主導の体育指導委員を民間本位の制度にとの期待も込めて体指任命、そして連絡協議会の会長就任となりました。
 「教職員は学校体育の充実に重点を置き、社会体育は民間人の体育指導委員で」。これが東会長の方針でした。いらい教職員の体指は次々と民間人の熱心な人にバトンタッチし、現在男性48、女性10人の体指はすべて民間人。
 
 専門の指導種目19、特に生涯学習が大きな目標として揚げられてからは、地域の要望に応えての「ニュースポーツ普及講習会」が昨年中29会場で行われ、受講者は1,545人に達しました。

思い出を語る矢野忠明さん
思い出を語る矢野忠明さん


ゲートボールも東・矢野コンビ
  ニュースポーツで忘れられないのがゲートボールです。それまで外出することも少なく、まして体育なんて……と疎外され勝ちだっ中高年向けに、いち早く着目して導入したのが東会長と矢野忠明さん(当時市教育委員会体育係長)のコンビでした。
 熊本県八代市で昭和51年度体指研修会が開かれ、東会長と矢野係長も参加しました。研修会場に向かう路上で、スティックをかついで歩く老婦人三人づれと会い、会場を尋ねたのがきっかけでゲートボールの存在を知り、その面白さを喜々として語る三人の表情を見て(これだ!)と直感、その場から東奔西走し、スティックを「佐世保ごま本舗」に特注するなど苦心の結果、爆発的なゲートボールブームを巻き起こしました。
 草創期の熱意あふれる民間体育指導委員の功労者、東光雄さん。卒先し、身銭を切ることもしょっちゅうだった32年間。文部科学大臣表彰など栄誉の数も枚挙にいとまがありません。


市民ハイキングでのひとコマ
市民ハイキングでのひとコマ




■東 光雄さんプロフィール 
大正9年(1920)3月29日生まれ。兵役のあと佐世保市で天満タクシー創業。男の子3人が潮見小時代、少年ソフトボール選手となり指導に熱中。その縁で体育指導委員に。同時に連絡協議会長も引き受け、民間主導組織に改編。昭和51年ゲートボール導入。同56年プロ野球オープン戦地元開催に尽力。同60 年、わのわリングなどニュースポーツ導入に力を入れる。全国体育指導委員連絡協議会功労賞など表彰多数。平成3年勲六等単光旭日章受章。平成15年3月、退任。


posted at 17:34:00 on 2005-01-31 by SSF - Category: この人この時代
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